125周年記念シンポジウム 開催レポート

「場所の時代」の建築

2015年5月27日「イトーキ125周年記念シンポジウム」を開催しました。
日頃ご愛顧いただいている多くの方にお越しいただき、盛大なイベントとなりました。

特別講演のゲストは、世界の第一線で活躍される建築家 隈研吾氏と、AERA編集長 浜田敬子氏。
第一部では、隈氏に『「場所の時代」の建築』をテーマにお話しいただき、第二部では浜田氏がインタビュアーとなり、隈氏の建築観に迫りました。

およそ2時間半にも渡る講演でしたが、時折頷きながら熱心に聞き入る会場の皆さまの姿が印象的でした。

第一部.「場所の時代」の建築:隈研吾氏

場所の建築について語る隈研吾氏

東日本大震災で知った、今の建築に求められていること

時代が変わるきっかけとは、何でしょうか。
隈氏は、ひとつの説として技術の進歩があると述べた上で「しかし私は、時代を変えるものは災害だと思っている」と断言します。

自然の脅威を目の当たりにするたび、人々は災害に負けない建物をつくり、街の復興とともに産業を発展させてきました。1871年のシカゴの大火災では、レンガと木で出来た街が燃えたことで、その後のコンクリート建築が大きく発展したと言われています。
災害に負けないよう、ちょっとやそっとでは倒れない強さが、建物に求められ続けてきました。

ところが、2011年3月11日の東日本大震災では、たとえコンクリートであろうとも海際の建物は全て流されてしまいました。隈氏はここで、唯一無事だった建物が“丘の上に建てられていた”ことに注目します。壊れない強さではなく、“高い場所に建てれば大丈夫”という知恵を持っていた建物が生き残ったのです。

「建物をつくるときには、地形や気候、文化などをふまえ、徹底的にその場所について考えぬくことが求められている。そんな『場所の時代』が、やってきたのではないだろうか。」そう語りました。

場所の時代を生きる建築

では、『場所の時代』に必要とされる建築とはどういったものでしょうか。隈氏のプロジェクトに対するアプローチの仕方から、その糸口を探ります。
例として取り上げられた作品の中から、2点をご紹介します。

1.那珂川町馬頭広重美術館

「栃木県の馬頭にある美術館です。
美術館の目の前には山があり、その苑路には神社があります。『山を大事にしなさい』という知恵をもとに、つくられたのでしょう。地域の人たちが、昔から山を守ってきたということが伝わります。
設計では、山に面して入り口を作り、入り口からまっすぐに抜けた空間を設けることで、その先の窓の景色が見通せるようにしました。窓からは、山が見えます。入り口を通るときにいつも景観が楽しめるので、山を美しく保とうと思えるのです。」

2. 歌舞伎座

「2013年4月に新開場した、歌舞伎座の建て替えです。
以前の歌舞伎座は、あまり街に開かれていないように感じていました。そこで、広場を構内につくり、さらに通りに沿った面をガラス張りにすることで、広場と通りを一体化しました。
江戸文化研究家の田中優子さんから、『芝居町』という言葉を教えてもらいました。江戸時代は、小さな芝居小屋がいくつも集まっている場所があり、『芝居町』と呼ばれていたそうです。
街そのものに遊びに行くという考え方は、まさに私がこのプロジェクトで思い描いていたものでした。
『芝居町』を復興しよう。そんな想いをこめています。」

「その場所に誇りを持ち大事にしようとする人たちが、これからの『場所の時代』の建築を担っていく」。そう締めくくりました。

第二部.スペシャルインタビュー:隈研吾氏×浜田敬子氏

AERA編集長浜田敬子氏による、隈研吾氏のインタビュー。

AERAの編集長としてご活躍される浜田氏が、隈氏の建築観に迫りました。その一部をご紹介します。

集合知の中で、信頼関係を築いていく。

浜田氏(以下敬称略):隈さんと何度かお仕事をご一緒する中で、「忙しい」レベルが他の方とは違うと感じました。プロジェクトを進めるにあたり、いつもご自身で現地を見に行かれるのですか?

隈氏(以下敬称略):写真やビデオでは肝心な質感が伝わらないですからね。その場所の独特の空気感みたいなの、あるじゃないですか。
重要なのは、空港からその敷地に行くとき。今どんな建築がつくられているか観察することで、求められていものが分かる。美的価値観や、環境との調和なんかも理解できる。

浜田: 建築って、誰もが目にするもので規模も予算も大きい。ときには町興しまで期待されたりしますよね。すごくプレッシャーだと思うのですが、どう乗り越えていらっしゃるのですか?

隈:建築のプロジェクトは多くの人が参加するから、ある意味ゲーム的に捉えてる。僕はその中のプレーヤー。ひとりでプレッシャー背負えるものじゃないですからね。
アイデアが浮かばない…なんて時も、「とりあえず締め切り今日だから出しとこう」と。最終的に誰かが「別の案だして」って言いにくるから、心配しないでおこうと(笑)。
建築をつくるときって、コミュニティというか、「集合知」が出来てくるものなんです。ひとりだけが大きな責任を感じなくても、物事が前に進んでいく。
大事なのはサッカーと同じで、速くパスを回すこと。どんなに優秀な人でも一人でドリブルしてちゃ駄目で、パスを回すことでリスクの分散が出来て、チェック機能がきちんと働くんです。

浜田:「集合知」として仕事をするには、相手と信頼関係を築くことも大切ですよね。

隈:そうですね。万里の長城で竹の家を作ったときは、中国の工務店は“竹を油につけて加工する”という案を出してきた。竹って弱いから、何かしら加工しないといけないんです。
僕らは専門家から「熱処理だけで十分」と聞いていたし、油につけると茶色い色味になってしまうので、悩みました。だけど、彼らの熱意がすごかったんです。なので、これだけ技術提案してきているのだから彼らと心中しようと決意しました。
その結果、中国でしか出せない渋みのある色合いが出来た。「集合知」の中で相手を信頼して進めることで、思わぬ良い結果が生み出せました。

AERA編集長 浜田敬子氏と、建築家 隈研吾氏。「集合知」の大切さを語る隈氏。

建築と都市は結びついている。もっと街づくりへの関心を。

浜田:隈さんにとって、海外の仕事の面白さとは何ですか?

隈:日本の中にいるだけでは、井の中の蛙だと思う。日本ってすごく特別だから。
ひとつはシステムの問題。日本では長年、ゼネコンを中心としたシステムが主流です。でも、海外では日本より一足早く、CM(コンストラクション・マネジメント)や、BIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)といった新しいシステムが普及していっている。古くからあるシステムに囚われてしまうのは、あまり良いことではありませんよね。
もうひとつは、感覚の違い。例えば日本では、木の色むらや木目を合わせるという作業は、何も言わなくても現場の職人さんがやってくれるんです。でも、海外じゃそうはいかないんですね。色や木目の合わせ方がバラバラのまま進んじゃって、最初に思い描いていたのと違う雰囲気のものが出来上がったりする。
海外に身を投じてみて、痛い目に合ってわかるということもある。そうしていくことが、日本人には必要じゃないかと。

浜田:隈さんは「逆境を乗り越えてく」ということを、ちょっと楽しんでいらっしゃる感じがします。

隈:楽しめるようにならないとね。僕も最初は色々なことに愕然としましたよ。 でもその度に、自分も学習するんですよね。「色むらがあってもサマになるようなデザインを、次回は考えよう」と。どう対応すれば良いものが出来ていくのか。そうやって考え続けることで、僕自身が学習していっています。

浜田:最後に、建築に携わる人たちに伝えたいことなどはありますか?

隈:「街づくり」にもっと関心を持ってほしいと思う。日本では、建築と都市計画が分かれているんですね。大学でも建築学科と都市工学学科というように。 ヨーロッパは、それを同じ領域として勉強するんです。建築をしながらアーバンデザインを考えるのは当たり前。
日本の若い人は、建物の細かいところは高い精度で仕上げられても、街に広げていくということを考えられる人はあまりいない気がしています。
今中国で、アートキュレーターが中心となって胡同(フートン)の地区全体を整備する試みがされていますが、そういった都市コミュニティに関心を持ってもらえれば、嬉しいです。

浜田:隈さんが日本人として、世界を相手に「残る」ものを作ってくださっている。これは、本当に誇らしいことです。今後も、いろいろな建物を楽しみにしています。

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